”存在を想う”からはじまる。生活やビジネスを「ケア」の視点で考えてみたら
※本記事は、ハーチ株式会社が運営する「IDEAS FOR GOOD」からの転載記事です。
地球上の生物は、地球から恵みを受けとり、また自ら地球に還っていきながら命を育んできた。それは人間も同じで、地球からの恵みがなければ生きていくことはできず、その命を終えた後は地球に還っていく。
しかしながら、現代では人間により数多の環境・社会問題が引き起こされている。気温上昇、海洋ごみ問題、水質汚染、強制労働、人種差別。
その多くに共通する根本的な原因のひとつを、ある存在が「存在している」ことに対する意識の欠如だと筆者は考える。そして、その解決策として、サステナビリティやウェルビーング文脈の研究者から近年注目されている「ケア」の概念を今回はご紹介したい。
問題はなぜ起こり続けているのか
まず始めに、環境・社会問題の根本にあるものは何か、今一度立ち止まって考えてみよう。
世界的な環境・社会問題に対し、私たちは様々な対策を講じている。例えば、気温上昇に対してはパリ協定に示されるようなカーボンニュートラルを目指す動きが、海洋ごみ問題に対しては使い捨てプラスチックの見直しなどが、過酷な環境での強制労働に対してはトレーサビリティの確保などが行われている。
ここで、気温上昇や海洋ごみ問題に関して考えてみよう。よくある意見だが、二酸化炭素やプラスチックそのものが「悪」ではないだろう。むしろ、これらから人類が多大な恩恵を受けてきたのはまぎれもない事実だ。二酸化炭素と水から、植物が太陽エネルギーでデンプンと酸素を生み出し、その酸素を体に取り入れることで人類(や他の生物たち)は生きている。また、プラスチックも、象牙や綿といったそれまでの自然素材の代替となるとともに、戦後の人口増加の中での生活・衛生環境を向上させた歴史がある。
問題は二酸化炭素の排出量が吸収量を上回っていることや、現状のプラスチック処理のキャパシティを超えて生産・廃棄がされ続けていることにある。では、二酸化炭素排出量がその吸収量を上回らないようにし、新規プラスチック生産も抑えればよいのではないか。
こうした見解もある中で、これらの問題が起こり続けているところに、より深い思考の必要性が感じられる。これは強制労働という社会課題に目を向ければより明らかになる。そのような労働そのものが倫理に反することだと現代のほとんどの人が同意しながら、未だに苦しんでいる人々が世界にはいるのだ。
問題を理解していたとしても、解決の方向性がわかっていたとしても、行動するのは容易ではない、というのが現状なのだ。
では、なぜ行動できないのだろうか。
これに対して経済的に考えることも、技術的に考えることもできようが、そもそもそれらを形作る人間の内なる原因のひとつとして、筆者は、ある存在が「存在している」ことを意識できていないからではないか、と考える。
「認知」はしていても、「意識」からは隠れている
「ある存在が『存在している』ことを意識できていないこと」とはどういうことか。説明にあたり、「意識」と「認知」を区別したい。ここで、「意識」しているとは、その存在を気にかけている状態であり、「認知」しているとは、その存在を単に知っている状態とする。
例えば、スーパーでトマトを買うとしよう。この時、たいていの人は「このトマトを育てた農家の人がいる」ということを知ってはいるだろう。別の言い方をすれば、誰かに「どこかの農家の人がこのトマトを育てたんだよ」と言われても、「知ってるよ」という感覚になる。この時、その人は農家の人の存在を「認知」はしている。
しかし、その農家の人のことを気にかけているかと言うと話は別だろう。ある人は、「この農家の人はどこに住んでいるのだろうか?」「他にも野菜を育てているのだろうか?」などと考えるかもしれない。この場合は、気にかけている、つまり「意識」していると言える。一方で、特にそのようなことを考えず、値段や熟れ具合だけを考慮して買う人もいるだろう。その人は、農家の人の存在を「認知」してはいるが「意識」してはいないこととなる。
実際、このような状態は現代の消費社会においてありふれているように思われる。昨晩寝る前にスマートフォンを操作している際や、今朝コーヒーを飲んだ際、それらに関係する存在にどれほど意識を向けただろうか。マルクス主義に「コモディティ・フェティシズム」という概念がある(※1)。これは「商品の価値はそのものにもともと備わっているものだと考えられ、背後で価値を生み出している労働者の存在が隠されてしまうこと」として、資本主義経済の特徴として語られている。
マルクス主義では特に「労働者」の存在が隠されることに注目しているが、その他にも多くの存在が日々の中で隠されていると感じる。スマートフォンを構成する金属、その鉱物が採掘された山、コーヒー豆が実っていた木、その木を登るアリ、そこに吹いてくる風など。私たちが普段手に取るものの周りには、無数の人、もの、生物、現象などが存在する。しかし、これらの存在を人はどれほど意識できているだろうか。
とりわけ、技術の発達と共に分業が加速し、グローバル化により世界中の人とつながるようになると、ある存在に関わる存在が増えていくとともに、その時空間的な距離感から関係を捉えることが難しくなった。こうして、実は関わりがありながらも日々において意識しきれない、それどころかそもそも認知さえしきれない存在が増えていった。
つながりの増加・多様化を考えると、これは仕方のないことなのかもしれない。しかしながら、意識や認知をしていなくても関わり合っているがゆえに、知らず知らずのうちに様々な影響を与えている。その影響の負の部分が集積したものが、環境・社会問題の根本にあるように思われる。
「ケア」を通じて存在を意識する
では、どうすれば多様な存在を意識することができるのか。その一つの方法として、「ケア」を紹介したい。
ケアとは何か。ケアとは英語「care」であるが、その源流となる古英語(※2)では「悲しみ」「不安」といった意味と結び付けられており、より遡った古代ローマ語(※3)では「不安」とともに、「他者の福祉に貢献すること」という意味もあったという。
現代の動詞的な使われ方を考えると、2つの意味がある。一つは、「care for」であり、これは「相手の必要性に答えること」として使われており、相手の存在に主軸が置かれた「福祉」の要素が強い。医療ケア、介護ケア、保育ケアといった際の「ケア」の使われ方はこの意味が見てとれる。
同時に、「care about」として使われることもあり、これは「自ら関心を向けること」だ。こちらは「自己」に主軸が置かれつつも、対象物の存在がある。
これらを踏まえ、本記事では「ケア」を広義に「自己の存在と他の存在との間のつながりに関心を向けること」と定義したい。
あらゆる存在とつながっている、という視点
このケアの定義において、「自己の存在と他の存在との間のつながり」と言えど、つながりがないと考えてしまってはそれまでとなってしまう。これに対して、イギリスの人類学者ティム・インゴルドが提唱する「Dwelling perspective 住まう視点」が示唆を与えてくれる
「Dwelling perspective 住まう視点」とは、私たちは箱庭のように準備された環境に独立して生きているのではなく、その環境から影響を受けることとそこに変化を与えることを常に行っている、という考え方だ(※4)。この相互関係の中に存在することを「住まう」と表現しており、そしてこの「私たち」には人間だけではなく、生物、もの、現象など、あらゆる存在を含んでいる。
例えば、家を建てるために木を切れば、それによって森の形に変化を与える。それによって建てた家も、キッチンの油が染み込んだり、子どもが壁に絵を描いたりして少しずつ変化する。また、木を切られたことによってリスが巣をつくる場所に困るかもしれないし、日の光を浴びた下草は太陽を受けるかもしれない。家では白アリがこっそり床の木を食べていて、それに気付いた住人が床板を張り替えるかもしれない。外に置かれた古い床板には風によって運ばれた菌糸が付き、キノコが生えてくるかもしれない。私たちは相互関係の中で、環境を変化させながら「住んでいる」のだとインゴルドは説く。
これを地球規模で考えれば、関係の濃淡はあれ、私たちは存在するかぎり既にあらゆる存在とつながりあっていると考えられないだろうか。先述のコモディティ・フェティシズムの話では、資本主義経済やグローバル化の観点からつながりの増加と多様化を論じたが、インゴルドの「住まう視点」では、私たちはそもそもつながっているのだと考えられる。資本主義経済やグローバル化は、そのつながりをより濃いものにしたと捉えなおすこともできそうだ。
インゴルドは住む視点と対となる視点として「Building perspective 建てる視点」も解説している。これは形作られたものを完成形と捉え、その完成したものを私たちは使い、そこで暮らす、つまり「建ててから住まう」という考え方だ。この考え方では私たちが住まうことによって生み出される変化や、他の存在との関係性、他の存在も「住んでいる」ことが見逃されてしまう。
「建てる視点」から離れ、「住まう視点」に立つことで、私たちがいかに環境に変化を及ぼしているのか、考えることができるのではないか。そして、これまで気づいていなかった存在に気づき、自分とはどんな関わりがあるのかを考えることが、つながりの意識の土壌となるのではないか。
ケアで変化を生み出す、企業・団体の事例
こうしてより多様な存在に気づき、ケアの意識を持つと、一つ一つの行動に変化の余地が生まれないだろうか。いつも買っていたコーヒーの後ろに、コロンビアの農家の人、その人の暮らしが見え、そこにどう自分が影響を与えうるか考えることは、値段や人気以外の判断材料とならないだろうか。
とはいえ、これはあくまで余地であって、人間の行動はその意味だけに従って動くとは限らない。人間の行動には意味的な軸だけでなく、経済的、技術的、感情的な軸など、様々な軸がある。自分とコーヒー農家の間に意味を見出していたとしても、コーヒーを値段で選んだり、そもそもフェアトレード商品などの選択肢がなかったりする。もちろん美味しいから、という理由も忘れてはいけない。また、企業としても、経済性などの理由で、誰かに悪影響が出ていることを知りながら活動を続けた例が歴史上にあるのも事実だ。
人間の行動には様々な要因が絡み合っているからこそ、個人、企業、国など複数のレベルで活動しながら、システム全体をリデザインする必要がある。これが言うは易し、行うは難しであることは十分承知だ。しかし、実際にケアの視点を持ち、挑戦している人たちも数多くいる。いくつかの例を紹介したい。
例えば、サステナビリティ文脈で有名なオランダのチョコレート企業「Tony’s Chocolonely(トニーズチョコロンリー)」も、ケアの姿勢から生まれた企業と言える。同社はチョコレート産業が生み出す現代の奴隷労働を問題視し、使用するカカオのトレーサビリティを担保した。さらに、通常のフェアトレード価格に30〜40%ほど上乗せした「トニーズプレミアム」を農家に支払ってチョコレートを生産している。この取り組みだけでもカカオ生産者に対するケアの姿勢が見て取れるが、同社の取り組みはそれだけでない。
チョコレートのパッケージや店舗の内装、そしてもちろん美味しさにこだわり、魅力的にすることで消費者の注目を集める。その上で、不均等なサプライチェーンを表現した不均等に分割されたチョコレートは買った人の疑問を引き出し、さりげなくパッケージ裏でチョコレート産業が抱える問題に言及することで認知の機会をつくっている。こうして、ケアの姿勢を自社内だけでなく、デザインを通して消費者にまで波及させることを試みている。
また、ベトナム発のピザレストラン「Pizza 4P’s」の東京店は、料理に使用する食材はもちろん、テーブルや椅子などの家具、クッション、カトラリー、ランプなど、全てのものに「地球とのつながりを感じられるストーリー」を見出している。例えば、銃弾の空薬莢(弾を打ち終わった後の薬莢)を材料にしたカトラリーからは、紛争に巻き込まれる人々の存在が、海藻を用いて作られたランプシェードからは、海とのつながりが感じられる。
これら一つ一つのストーリーは、まるで雑誌のような洗練されたデザインのメニューブックに全て記載されており、これまで考えることがなかった存在のストーリーに来店者が触れる機会を与えている。これがブランディングにもつながっており、東京店は現在、予約がすぐに取れないほどの人気ぶりだ。「Pizza 4P’s」はベトナム全土、カンボジア、インド、そして日本など、今では世界で32店舗を展開するまでに拡大。同レストランが行うケアが、より多くの人々のケアの意識にもつながっている。
一人のケアが別の人のケアにつながったことが見えた例として、京都を拠点に活動する団体『ミンナソラノシタ』(以下、ミナソラ)の取り組みも紹介したい。同団体は、2011年の福島県での原発事故に被災した親子に「笑顔になれる体験」を届けたいという思いで活動する団体だ。原発事故の後、県内では放射能への不安や外遊びが制限された環境の中で暮らす幼稚園の子どもたちやその保護者が多くいた。そういった方々に対し、ミナソラは「少しでも心身のリフレッシュになれば」という思いから、京都の幼稚園に3週間招いて生活してもらう「幼稚園留学」を行った。
この取り組み自体の根本にケアの意識があることは言うまでもない。参加した一人の母親からは「同じ悩みや葛藤を持ったお母さんたちや遠くから応援してくれているママがいると分かっただけでも“心のお守り”をもらったような感覚になった」との声があったといい、不安の中にいた方の心を癒している。
同時に、福島の子どもたちと仲良くなった京都のこどもが、テレビで福島のニュースを見る度に「○○ちゃんがいるところで何があったの~?」と親に聞く、というエピソードがある。これは、ケアの意識が別の人のケアの意識にもつながった象徴的な例ではないだろうか。
さらに、人間以外にもケアの視点を広げた例として、イギリスの家具ブランド「House of Hackney(ハウス・オブ・ハックニー)」がある。同社は「母なる自然」と「未来の世代」を同社の取締役に任命することで、自分たちの活動がそれらにどのような影響を与えているかを真摯に考察し、経営判断に取り入れ始めた。
運用方法としては、自然保護に特化した法律事務所の創設者で、エセックス大学で講師を務めるブロンティー・アンセル氏が法的代理人となり、幅広い分野の専門家の意見を参考にしながら意見をまとめて同社に提出する。他者は自分たちのことをどう思うか、と他者の立場から考え、また自然や未来の世代といった存在にまでケアを広げることにより、自社とそれを取り巻く多様な存在のつながりの解像度を上げる試みだ。
これらはどれもケアの意識に端を発していると言えるだろう。取り組みによって他者の生活をよりよいものとし、その商品やサービスに触れた人にもケアのきっかけを作り、ケアの意識が新たなケアにつながり、人間以外の存在へのケアも行っている。言うは易しであるケアを広げることにおいて、多くのヒントを提供している。
想像できるから、ケアできる
最後に、ケアと想像についても言及しておきたい。
これまでお話してきた「他者の存在を認知し、意識する」ということであるが、そもそも私たちは全ての存在を認知することはできない。また、私たちは「その存在のありのまま」を認知することはほぼ不可能だろう。今この記事を読んでいる間に、アフリカのサバンナでどれほどの数のヌーが草を食べたり、昼寝をしているのか。ニューヨークのオフィスで誰が働いているのか。そんなことはおろか、お気に入りのマグカップを作った人は何をしているのか、テーブルの下にある鞄がどういう状態なのか、そして仲の良い友人が何を思うのかも、本当のことは私たちは知り得ない。
哲学の潮流で、オブジェクト・オリエンテッド・オントロジー(※5)というものがある。これは人間以外の存在にとってのものごとの存在の仕方に関心を向けるとともに、人間の認知とは関係なくものごとが存在することを認め、人間が認知できない存在の仕方も認める動きである。似た考え方で人類学に「多自然主義」というものがあるが、例えば人間にとって川がどう存在するかと、魚にとって川がどう存在するかは全く違うかもしれない。これは、客観的な事実があってそれをどう見るかということではなく、それぞれの世界の中でそもそも存在の仕方が違うという考え方だ。
これは人間や魚といった種だけではなく、個人にも言えないだろうか。私たちは自分が何を見たか、何を聞いたか、何を読んだか、何を感じたかなどをもとに存在を考えている。しかし、その存在そのものにアクセスすることはできない。できることは、得ている情報から想像することだけである。すると、認知も突き詰めれば想像なのではと筆者は考える。
想像することしかできない。そう言うと少し悲しく聞こえるかもしれない。しかし、筆者には想像できるということが何よりの希望に感じられる。想像することができるから、ケアができる。隣にいる人から、遠く離れた人、生き物、もの、場所までもつながりを感じることができる。
「仕事は忙しかったけれど、本当にアラスカに来てよかった。なぜかって?東京で忙しい日々を送っているその時、アラスカの海でクジラが飛び上がっているかもしれない。そのことを知れただけでよかったんだ。」
僕には彼の気持ちが痛いほどよくわかった。日々の暮らしに追われている時、もうひとつの別の時間が流れている。それを悠久の自然と言っても良いだろう。そのことを知ることができたなら、いや想像でも心の片隅に意識することができたなら、それは生きてゆくうえでひとつの力になるような気がするのだ。(『長い旅の途上』星野道夫著)
これはとても人間らしいことではないだろうか。確かに他の種も想像する力を持っているかもしれないが、想像力が人間の生活を豊かにしてきたことはまぎれもない事実であろう。想像力を通して自分以外の存在を思い、ケアすることは、人間としての喜びのようにも感じられる。
環境・社会問題を「取り組まねばならないもの」と考えると、少し後ろ向きな気持ちになる人もいるだろう。そうではなく、ケアを通してより人間としての喜びが増し、それによって問題も解決されていくと考えると、とても前向きになれないだろうか。
※1 【参考書籍】『Introducing Human Geographies (3rd edition)』(Paul Cloke, Philip Crang and Mark Goodwin編, 2014)
※2「care」の語源
※3古代ローマにおけるケアの意味
※4 【参考書籍】『The Perception of the Environment』(Tim Ingold著, 2011)
※5 What Is Object-Oriented Ontology? A Quick-and-Dirty Guide to the Philosophical Movement Sweeping the Art World
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